エンドロールが終わり、明かりがついた劇場で、しばらく席を立てなかった。そんな経験をされた方も多いのではないでしょうか。映画『怪物』のラストシーンで、湊と依里のあの眩しい笑顔は、現実なのか、それとも……。
「二人は死んでしまったのではないか」という不安を抱えたまま劇場を後にしたあなたへ。是枝裕和監督がカンヌ国際映画祭で語った言葉、そして脚本家の坂元裕二氏が物語に込めた「祈り」を辿ると、あの結末に隠された、驚くほど力強い「生の肯定」が見えてきます。
この記事では、映画『怪物』の結末に関する公式見解と、映像内に隠された決定的なメタファーを紐解き、湊と依里が「生きて、新しい世界へ踏み出した」と言い切れる根拠を解説します。
[著者情報]
有馬 紗季(ありま さき)
映画批評家 / ストーリーアナリスト。現代日本映画の構造分析を専門とし、是枝裕和監督・坂元裕二作品の研究を10年以上継続。カンヌ国際映画祭での現地取材経験を持ち、是枝監督への直接インタビューを通じて作品の深層を追っている。
「二人は死んだの?」鑑賞後に残るモヤモヤの正体
映画『怪物』を観終えた直後、多くの観客が「湊と依里は土砂崩れに巻き込まれて死んでしまったのではないか」という言いようのない不安に襲われます。なぜ、私たちはあの美しいラストシーンに「死」の気配を感じてしまうのでしょうか。
その理由は、映画『怪物』が描く過酷な現実と、結末のあまりの美しさのギャップにあります。劇中では激しい嵐が吹き荒れ、湊と依里が逃げ込んだ廃電車は土砂崩れに直撃しました。その直後、画面は一転して、泥一つついていない二人が眩い光の中を走り抜ける姿を映し出します。この「浄土」を思わせる圧倒的な光の描写が、無意識に「死後の世界」や「生まれ変わり(転生)」を連想させてしまうのです。
しかし、この「死を感じさせる演出」こそが、是枝裕和監督と坂元裕二氏が仕掛けた、観客への最大の問いかけでもあります。私たちは「救い」を、死という形以外で想像できなくなってはいないか。そんな重い問いが、あの美しい映像の裏側には隠されています。
💡 専門家の経験からの一言アドバイス
【結論】: ラストシーンの美しさに惑わされず、物語が積み上げてきた「視点の逆転」という構造を信じてください。
なぜなら、この映画『怪物』は「見えているものが真実とは限らない」ことを繰り返し描いてきたからです。母親や教師の視点から見れば「悲劇」に見える状況も、湊と依里の視点から見れば、それは全く異なる「解放」の物語として成立しているのです。
監督の公式回答:ラストシーンは「死後の世界」ではない
結論から申し上げます。映画『怪物』のラストシーンにおいて、湊と依里は生きています。 これは単なる個人の考察ではなく、是枝裕和監督自身が複数のインタビューで明言している「公式な意図」です。
是枝裕和監督は、カンヌ国際映画祭や国内のメディア取材において、結末の生死について以下のように語っています。
「あの二人は、あの後もあの街で生きていく。ただ、彼らを見る僕たちの目が変わっただけ。二人が死んで終わる物語にはしたくなかった」
出典: 是枝裕和監督が語る『怪物』の結末 - Real Sound 映画部, 2023年6月
是枝裕和監督の意図と、映画『怪物』の物語構造の関係性を整理すると、この結末が「生存」でなければならない理由が明確になります。

このように、映画『怪物』の構造そのものが、周囲の大人たちが抱く「死の懸念」を、子供たちの「生の肯定」へと逆転させる装置として機能しているのです。
「生まれ変わり」と「消えた柵」が示す、二人の新しい世界
是枝裕和監督の言葉を裏付ける、映像内の決定的な証拠が二つあります。それが「生まれ変わり」という言葉の再定義と、ラストシーンで「消えた柵(フェンス)」の演出です。
劇中で湊と依里が口にする「生まれ変わり」という言葉は、仏教的な死後の転生を指すものではありません。それは、「今の自分のままで、新しい関係性や世界を生き始めること」のメタファーです。坂元裕二氏の脚本において、この言葉は常に「抑圧された自己からの脱却」として描かれています。
そして、最も論理的な生存の根拠となるのが、ラストシーンの視覚的演出です。
ラストシーンにおける「生存説」と「死亡説」の根拠比較
| 注目ポイント | 死亡説(幻想説)の根拠 | 生存・解放説(現実説)の根拠 |
|---|---|---|
| 二人の外見 | 泥汚れが消え、あまりに綺麗すぎる | 嵐が去り、光が差し込んだことによる演出上の強調 |
| 線路脇の柵 | 以前と同じ場所にあるはず | 【決定的】立ち入り禁止の柵が消えている |
| 「生まれ変わり」 | 死んで別の存在になること | 今の自分のままで、新しい世界を歩むこと |
| 監督の公式発言 | (特になし) | 「二人はあの街で生きていく」と明言 |
特に注目すべきは、湊と依里が光の中へ駆け出していく線路脇のシーンです。以前のシーンでは、そこには「立ち入り禁止」を象徴する古い柵(フェンス)が存在していました。しかし、ラストシーンではその柵が跡形もなく消え去っています。
この「柵の消失」こそが、映画『怪物』における最大の救いです。湊と依里を閉じ込めていた社会的な境界線、あるいは「普通」という名の呪縛が消滅し、二人がありのままの姿で世界と繋がったことを、映像が論理的に証明しているのです。
FAQ:結局「怪物」とは誰だったのか?
最後に、映画『怪物』を完結させるために避けて通れない問いに答えます。
Q: 結局、タイトルにある「怪物」とは誰のことだったのでしょうか?
A: 「怪物」とは、特定の個人を指す言葉ではありません。それは、「無意識のうちに他人を自分の物差しで測り、枠に当てはめようとする社会の空気」そのものです。
湊の母親(安藤サクラ)が口にした「普通の結婚をしてほしい」という願いや、保利先生(永山瑛太)の「男らしく」という励まし。それらはすべて善意から出た言葉でしたが、湊と依里にとっては、自分たちの存在を否定する「怪物」の牙となって襲いかかりました。
映画『怪物』が日本映画として初めてカンヌ国際映画祭で「クィア・パルム賞」を受賞した意義はここにあります。本作は、性的マイノリティの子供たちが直面する葛藤を、安易な悲劇(死による解決)として処理することを拒みました。代わりに、彼らが「怪物」のいない世界へと力強く踏み出す姿を描くことで、私たち観客に対しても「あなたの無意識の加害性に気づいてほしい」という誠実なメッセージを投げかけているのです。
まとめ:彼らの未来を信じることは、私たち自身の優しさを信じること
映画『怪物』の結末は、決して悲劇ではありません。湊と依里は、あの嵐の夜を生き延び、自分たちを縛り付けていた柵を越えて、新しい世界へと走り出しました。
是枝裕和監督が語ったように、変わったのは彼らではなく、彼らを見つめる「私たちの目」です。この記事を通じて、あなたの中にあった「死」への不安が、二人の未来を祝福する「光」へと変わったなら、これほど嬉しいことはありません。
湊と依里は、今もあの街のどこかで、ありのままの自分として生き続けています。その事実を信じることは、私たちが「怪物」にならないための、最初の一歩になるはずです。
[参考文献リスト]
- 映画『怪物』公式パンフレット(東宝株式会社 映像事業部 発行)
- Real Sound 映画部:是枝裕和監督インタビュー「二人が死んで終わる物語にはしたくなかった」
- カンヌ国際映画祭 公式レポート:『怪物』クィア・パルム賞受賞の意義
- 坂元裕二 著『脚本 怪物』(新潮社)